2010年09月01日

長篠の戦いと山吉田の満光寺

長篠の戦いと山吉田の満光寺
おがです。

先日 長篠城址史跡保存会の講座に申し込み、そこで資料を幾つか購入してみました。
歴史も地理や前後の流れがわかってくると段々と面白さが増してきます。

長篠の戦いの時
武田勝頼は青崩峠を越え遠州に入り龍山で天竜川を渡り渋川、山吉田を通り長篠に至った
とあった。

秋葉~鳳来寺街道を通り、熊の神沢から引佐・川宇連へ抜け渋川へ
渋川からは田沢へ出たのか、峠を越え七郷一色~阿寺~山吉田だったのか?
それとも渋川~寺野~阿寺~山吉田だったのか?

中根洋治著「忘れられし街道」では吉田(豊橋)からの秋葉街道の本筋は山吉田~阿寺~須山~越境峠より渋川へ降りず川宇連~神沢(熊)とある。(現在の東海自然歩道の秋葉道との2本が本筋)

全部隊が同じ道ではなかったであろうから、これらの街道を分かれ進んだでのであろうと思う。

長篠の戦いでの「山家三方衆」や「伊井谷三人衆(伊井谷と言っても静岡の引佐ではなく愛知県旧八名郡:豊川以東~三ケ日、細江、引佐、都田あたりまで)」の地元のことを知り、更に興味が増してきた。

長篠の戦いと山吉田の満光寺
長篠の戦いと山吉田の満光寺

そんな訳でいつも通過してしまう山吉田の満光寺に寄ってみました。

1570年頃家康が若い頃、武田信玄の軍勢に追われて逃げる中、満光寺に一泊し、一番ドリが鳴いたら起こせと頼んで寝ました。 ところが、その夜半に突然ニワトリが鳴いたので、住職が家康一行を起こした。 一行は大急ぎ闇の中を出発した。 夜明けと共に武田軍が寺を包囲したが、家康一行は危機一髪命拾いした。
家康はこの恩返しとして満光寺のニワトリに三石の扶持を与えた。
その後、1649年家康から寺領20石が与えられた。
「山の吉田の満光寺さまのとりになりたや にわとりに 」
と今でも民謡として歌い継がれている。   (満光寺パンフレットより)

若い頃って?
三方原の戦いの前?
春野の勝坂で武田軍に破れ、山住神社に逃れて武運を祈ったのはその前?後?

桶狭間で今川が破れ、
その後 家康(当時は松平元康)は多利野のある黄柳野から陣座峠を越え遠州に至り
引馬城(浜松城)に入ったとある。

パズルをひとつづつはめ込んで行く様に自分の中に落ちていきます。


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